代々木ゼミナール(仙台校)閉鎖から考える仙台予備校戦争
杜の都の仙台の駅東口から徒歩数分という好立地に代々木ゼミナールの校舎がある。
レンガ調のエクステリアは当時としては最先端のビルディングであったが、
1983年の開港から30年以上が経過し、現在は普通のビルになっていた。
S(駿台)K(河合)Y(代ゼミ)の3大予備校と呼ばれたバブル期の象徴
をもっとも表しているのが仙台と言っても間違いない。
代々木ゼミナールの有名講師のドサ周りが始まった1998年に、
東京駅から新幹線で仙台駅にたどり着いた有名講師山本俊郎講師は
駿台予備校⇒代々木ゼミナール⇒河合塾(別館)と3大予備校が立て続けに
表れる姿を見て、ただただ驚いた…と言っていたのが、
当時現役の高校生だった私には忘れない一言になった。
代々木ゼミナールが仙台に進出してきたのは1983年で3大予備校の先陣であった。
当時、東北(仙台含む)では最大規模を誇っていた文理予備校がこの影響を直接に受け、
多くの生徒が代々木ゼミナール仙台校に流れてしまった。
すると河合塾が文理予備校の吸収・合併に名乗りを上げたが、
文理予備校は内部分裂にあい、仙台文理と河合塾文理となった。
この後15年ほどの年月をかけて、最終的には河合塾仙台校としての
河合塾傘下に収まった。しかし河合塾仙台校となったのが2006年で
この混乱の中、1993年には駿台が代ゼミよりも仙台駅東口に近い距離に進出してきた。
文理予備校が分離して一部残った仙台文理
ただし、これが代々木ゼミナールの没落につながるものではなく
実は駿台予備校の危機を繋がっていた。
満を持して仙台に校舎を構えた駿台予備校であったが、
地元志向が圧倒的に強い東北という地域の特性上
駿台予備校が得意としている東京大学よりも
地元の東北大学を目指す生徒が多かったため
駿台予備校の方針はそうそう定着せず、生徒の増加につながらなかった。
そのため。当時の駿台予備校のトップ講師であった
英語の今井宏講師、薬袋善郎講師、仲本浩喜講師
数学の西岡康夫講師、今野和浩講師、真下雅浩講師、小島敏久講師
は代々木ゼミナールへ移籍(小島講師のみ駿台予備校へ帰る)
数学の長岡恭史講師は東進ハイスクールへ移籍してしまった。
仙台の予備校を舞台にした容赦ない戦いは、ミレニアムの2000年を第一次大戦
勃発から30年が経過した今が第二次大戦になったと考えてもよく
代ゼミの撤退によって、1つの区切りを迎えたのかもしれない。